読書:『文化系統学への招待:文化の進化パターンを探る』

7月17日さらに追記:
三中先生さらに“正体”について語っていらっしゃいます。
http://togetter.com/li/340116
やっぱり統計勉強せにゃ、自分でやってみるってわけにはいかんのね…。統計の教科書から始めます…。

6月11日追追記
電車でぼんやりしていて気づきましたが、
「祖先や子孫が時空的にどのように存在するかではなく,それらがどのような関係にあるのかに着目するという視点」
ってすごいな。つまり、複数のオブジェクトが存在していたとき、その因果ではなく、特定のマーカーを設定したうえで、関係を検討するということか。そうすると、実際にどのような因果があるかはともかくとして、複数のオブジェクト間の関係の強さが測定できるし、理論的にツリーあるいはネットワークを描くことができる。
ああ、これはすごい…。
複数の「近代」でいえば、それぞれの「近代」間の直接の因果は不明にしても、たとえば、特定の法令や制度をマーカーにすれば、それぞれの「近代」のネットワークを描くことができて、そこから、たといえば「理念としての西洋近代」とネットワークから描かれた「共通祖先」の比較ができたりもできるというわけなんですな。
うーん、これはすごい…。

まあ、結局オブジェクトをどうするかは、分析する人のセンス次第なので、そこは個人で頑張れ、というか、自分で統計の勉強もしなきゃいけないとなるとやっぱり大変だなあ…。


6月6日追記:
一昨日、以下の『文化系統学への招待』の感想を書いたところ、編著者の中尾先生(https://twitter.com/#!/plutian)と三中先生(https://twitter.com/#!/leeswijzer)の反応をいただきました。
なんだか申し訳ないです。

それにしても書き方が悪かった。固く書くのはダメですね…。またやっちゃったなあと思って、ションボリしています。でも、編者直々にコメントが出るなんて、ネットすごいなあ。書いてみるもんですね。

ホントは、これを頭に書いておかないといけなかったのですが、各章ともに事例は面白いし、議論はスリリングだし、結論は毎章膝を叩くし、大満足の本でした。池袋のLIBROでは人文書の奥の方においてありましたが、平積みで売るべきだと思います。本書では写本やイメージ、政治体制が取り上げられてますけど、特定の事象に対する言説とか、本の装丁とか、組織の作り方とか、法令とか、経済的な行動とか、ちゃんとカタマリとして想定できれば、そして、データがちゃんとそろえば、かなりいろいろできそうです。

で、以下にグタグタ書いたのは、①結局、使う側にセンスがないと、どんな鋭利な「武器」(後述)でもナマクラになるんだよなあ、というのと②「文化系統学」の方法がすでに提示されてるんだから、よくある「日本はどこそこの影響で〜」みたいな話には反証可能性がなくて眉唾なんだなあ、でも実際にちゃんと要素ごとに系統推定やっていくと、まず、ひとつひとつ要素確定をするのに一苦労だし、全体の「系統樹の束」として、ある時代層とかの話にたどり着くのはいつになるんかな…、と個人的に呆然、というモノです。
うわ、すっごい当たり前…。

というわけで以下、本文です。

文化系統学への招待―文化の進化パターンを探る

文化系統学への招待―文化の進化パターンを探る

中尾央・三中信宏編著『文化系統学への招待』読了。目次はこちら。編者の意図がはっきりとわかる、非常に興味深い論文集。
第一章「文化の過去を復元すること:文化進化のパターンとプロセス」(中尾央)で、「文化系統学」のいろはが示されたのち、具体例が示される。
第二章「「百鬼夜行絵巻」写本の系統」(山田奨治)では「百鬼夜行絵巻」に描かれる妖怪の配列を、編集距離として指標化し、系統推定を行う。そのうえで妖怪の具体的な描かれ方で推定された系統を補強してゆく。
第三章「『老葉』に対する系統学的アプローチ:宗祇による連歌の系譜」(矢野環)は、いくつかの文献に関する系譜分析に関する研究史を紹介した後、句集『老葉(わくらば)』の写本の系統を分析する。そのうえで、「系統学が通常の多変量解析に比較して有効な方法である」ことを示す。
第四章「系統比較法による仮説検定:社会・政治進化のパターンとプロセス」(トーマス・E・カリー:英語原文)は、台湾・フィリピンからポリネシアにかけてのオセアニア語群社会の各「社会」における政治組織の進化の系列を提示する。まさに「文化系統学」というべき作業である。
第五章「19世紀擬洋風建築とG・クブラーの系統年代について」(中谷礼仁)はスタンダードな建築史であるように感じた。明治初期の「擬洋風」建築の各要素の来歴をそれぞれに分析し、近世後半との具体的なかかわりと、「開化」的なものの再生産を描く。
第六章「文化の継承メカニズム:学ぶことと繁えること」(板倉昭二・中尾央)は、比較認知発達科学の手法から情報や技術の伝達、教育の進化のありかたについての概論するもので、ヒトの文化の系統を成り立たせる前提に関する議論である。興味深い事例が頻出するが、特に面白いのは、pp.127-128…ヒト幼児は「話し手の過去の発言が正確であったかどうかを追跡して、新奇な物体に対する名前を学習する際に、過去によく知っている物体に間違った命名をしていた話者よりも正しいラベルをつけていた話者から学習することを好む」であった。話の内容以前に、話者の信頼性を重視するのが先天的要素(?少なくとも幼児期に獲得する要素)というのは、興味深い。もう少し長い成長の過程で大部分の個体が獲得する技法かと思っていた。
第七章「イメージの系統樹:アビ・ヴァールブルクのイコノロジー」(田中純)は、ドイツ文化史家Warburgが分析した「ニンフ」イメージの系統をたどりながら、「文化系統学的な方向へと「美術誌」を乗り越えようとしてきた、人文科学的な探求の系譜をたどる。」
第八章「文化系統学と系統樹思考:存在から生成を導くために」(三中信宏)は系統学の研究史と「公理化」を概論し、生物学における系統学と文化に関する系統学の間の相似(相同ではない…と思う)を説く。ここでの主張は、著者のそれまでの著作での主張と同様である。「おわりに」は第八章から続き、系統樹思考の今後を検討する。言及されるのは、①いかにデータを作成するか、②モデルはツリーかネットワークか、③推定の方法論、④複数の系統樹の統合の方法、⑤「文理の壁」という幻想を超えた系統学の可能性である。

本書の多くの指摘に首肯するが、「文化系統学」的方法を実際に適用していく際に直面しそうな問題として、以下のものを想起した。
オブジェクトあるいはマーカーの設定に関してであるが、第八章三中論文において指摘されるように、生物学においても「種」は、「オブジェクトそのものが有する要素であるのか、それともそれを外部からみる主体の認知カテゴリーであるのか」は明確ではない。
一方、本書において、ある特定の「文化」的存在を取り上げたとき、写本や図巻、あるいは建築様式など構成要素をデータ化することが比較的容易なオブジェクトが取り上げられ、構成要素のデータ化(あるいはマーカー化)が難しい事象に関しては、取り上げられていない。非常に刺激的な第四章カリー論文の議論においても、「社会」が取り上げられるが、これらの「社会」の独立性、あるいはオブジェクトとマーカー、あるいは分析の単位の設定に関しては、本書ではあまり議論となっていない。(三中『分類思考の世界』では議論されている)
これは、ある一定の時点における単位の設定にとどまらない。本書ではたびたび「祖先-子孫関係」が言及されるが、時間軸上において、変化を続けるオブジェクトをどの時点で区切るのか、どこまでが祖先でどこからが子孫か、というのは重要であるように思える。この点は、本書が系統学という「パターン」分析の手法を提示することが目的であるがゆえに捨象されたと思われる。しかし、明確な輪郭をもった「種」を設定すること=オブジェクトを設定することは、時系列上においても、空間上においても分析を行う側のセンスが要求されるものであり、その点は、強く意識されるべきであるし、分析以前のデータ作成の段階が非常に重要であろう。特に生き物や写本など、一つのまとまりとしてすでに存在するもの(突き詰めればそう見えるだけ、なのではあるが)に対し、「文化」の中にあるものは分類以前に、どこまでがひとつの単位であるのかが議論になる場合が多いのではないか。とするならが、「文化的構築物」における系統学の適用においては、これまで以上に、認識主体側が認識の在り方を自問する必要があるように思われる。(「定量的形質変化モデルの仮定の妥当性については、常に検討し続ける必要があるだろう」p.205)
結局のところ、本書が提示するのは、データ解析の方法論なので、データ生成に関しては、読者や方法論のユーザー側で考えるべきなのであろう。この点、帯の文句「手にする武器は系統学/対象は生命から文化へ」というのは示唆的である。本書が提示するのは「武器」であって、オブジェクトを生のまま放り込んだら解析結果が出てくるような単純な装置ではない。研ぎ澄まして狙いを澄まして使うことで、既存の「武器」以上の威力を発揮するのだ。「武器」は使う側の技量によってその威力が大きく変わる。どのようなオブジェクトに、どのような形で「武器」を適用するか、その結果何が明らかになるのかは、「武器」を手にするものの功夫クンフー)次第なのであろう。

本書を読みながら、現代にいたるさまざまな「近代」の系譜は作成できないか、と考えた。
「近代という時代は、世界大のものとして成立したのであり、「西洋の近代」もその一部である(さらに「スコットランドの近代」「バルセロナの近代」「ラングドック農村の近代」なども考えられる。世界各地に「それぞれの近代」が存在した。それぞれの個性は、必ずしも、その「伝統」によって解釈できるものではなく、19世紀以降の歴史的敬虔そのものによって説明されるべきである。…近代とは、世界各地での類似性の拡大の傾向が多様性を凌駕してゆく時代と想定すべきだろう。…近代性の要素は…産業化、社会の軍事化、一夫一婦婚の優越など、いくつも全世界的に掃討共通する点を指摘することができる。これらいくつもの項目は、相互に必然的な連環を持つとは言い切れない。例えば、高度に産業化されながら人々の政治参加は限定されているなど、様々な様態がありうる。しかし、19世紀以降の社会変動を整理する補助線を引くならば、世界各地の趨勢は、どちらかといえば近似する方向へ向かってきたと言えよう。…なぜ類似する趨勢が見られるのかといえば、まずは理念化された「西洋近代」が世界標準として意識された点にあろう。西欧・北米がそのような理念に牽引されて社会変化をとげるとともに、世界各地も類似の理念のもとで(もちろん西欧・北米の経済的・軍事的優位を前提として)似た方向をめざしたのである。…ここで、「類似する趨勢」といっているのは、向かった方向が完全には一致しなかったことを示唆する意図がある。…」
上記は近代中国を専門とする著作の一部(吉澤誠一郎『天津の近代』pp.5-6)で、その諸作では、19世紀末から20世紀初頭にかけての天津の「近代」が出現するプロセスが議論される。それによって「天津の近代」が描き出されるが、その「天津の近代」は、どのような世界大の近代の「パターン」の中に位置づけられるのだろうか。引用部分では「理念化された西洋近代」が、共通祖先として設定されているが、それは正しいのか(途中から、祖先としてInventされたのではないか)。系統樹を描くとして、どのような単位を設定するのか。国か、都市か、集落か、階層か、年代をどのように区切るのか。そもそも「近代」を構成する要素をどのように設定するのか。いろいろと思いつく。しかし、いくつかの細分化された要素の検討は可能であろうが、統計的分析に耐えうるだけのデータをそろえることは不可能であろう。
ありきたりだが、このように考えるとき、世界の大小さまざまな要素が、複雑かつ膨大なネットワークのジャングルの一部を構成していることに思いが至る。「近代」について言及する場合、多くは現行の国家単位で議論がなされるようになるが、よしんばその国家を束とすることができたとしても、その束に含まれる膨大な系統樹がどこにつながっているのか、束としたときに、それまでつながっていたものが引きちぎられたりもするのかなどを考えると、ヒトの認識能力や解析能力がいかに狭く、先天的な要素に左右されているか(ある程度制限しないと生きていけないのですが)と、現在が過去からの複雑な系譜・文脈から容易に離れられないことを痛感した。

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

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進化思考の世界 ヒトは森羅万象をどう体系化するか (NHKブックス)

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分類思考の世界 (講談社現代新書)

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セックス・アンド・デス―生物学の哲学への招待

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