読書:『近代中国研究入門』(2012年版)
- 作者: 岡本隆司,吉澤誠一郎
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: 単行本
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人々の社会関係の動態をきちんと説明していこうとする努力は、安易な国民性談義が「中国人とはこういうものだ」と決めつけるのに抵抗して、深い理解と厚い記述を行っていくために不可欠である。(第一章:52頁)
我々は改めて、いや、常に「法」というものについて考えてみなければならないのであろう。まして、「法」は無条件、無前提にそこにあるものではない。ただ六法全書さえあれば、ただ「何々法」という法律さえあれば、そこにあるというものではない。(第二章:58頁)
モデルを提示し、それをもとに比較史的な検討を行うとしても、絶えず史料に戻って考え直す必要がある。二次文献に依存していると、英語圏の中国経済史研究にみられるように、一次史料を読むという基礎体力が低下してしまう恐れがあるから、気をつけなくてはならない。(第三章:112頁)
いまの立場から、ただ通説に準拠したり反駁したりするのはたやすい。意を用うべきは、結果として依拠するにせよ、批判するにせよ、常識がなぜ常識となったか、通説を支える史料と論理がどのように導き出されたのか、そうしたプロセスを見極めることであろう。そこに思いを致し、先達に及ばないところ、学ぶべきところ、先達の手が及ばなかったところを自覚しなくては、自身の独創など生まれようがない。(第四章:139-140頁)
膨大な量にのぼる檔案資料群は政治史研究を如何に深化させ得るのであろうか。もっとも容易に想定し得る答えは、これによって原史料に立ち返る研究が可能になる、というものであろう。もちろんそれはそれで間違いではない。だが、原史料に立ち返るとはいかなることなのか、と問いを継げばどうだろう。そのさい、我々が深く問わなければならないのは、立ち返るに値する史料群とはどういった課題に関するものなのか、どういったアプローチをするのに有効なのか、ということを常に意識することであろう。つまりは、対象と方法論である。(第五章:157頁)
たとえばテクストの中の特定の言い回しや語彙に注意が向いて、それがどのくらいの頻度で、どのような場面で用いられるか、先行するテクストはあるかを調査し、その用例を収集しようとしたら、ひたすら本のページを繰って、どのような場面で用いられるか、自分の目で探し、ノートやカードに書き写すしかなかった。しかしその過程で、初歩的なレベルでは、図書館のどこにどのような本があるかを知ることができたし、何度も繰り返しているうちに、どのような本を探せば目指すべき用例に当たる確率が高いかもおぼろげながらわかるようになった。文件に目が慣れていくうちに、読解力も身につく。テクスト全体を常に読むことになるから、場面や文脈を把握する力もつく。(第六章:196頁)
たとえば、近代中国に対して列強が与えた「停滞」「積弱」「野蛮」「専制」などの記号は、それがただちに当時の中国の「現実」を語っていたというよりは、中国の否定的な形象を通じて、「西洋」や「日本」のアイデンティティを構築するために必要とされた言説・イメージの一部をなすものであり、それが梁啓超ら清末改革論者によって「内面化」され、中国の危機意識を高めることで、さらに中国の政治実践の「事実」を形成していったと整理できる。(第七章:205頁)
いずれにせよ、解読可能な言語で書かれているものは何語であろうとすべて読まなければならない。渡航可能な国であればどこの国であろうと足を運んで先行研究・史料を入手しなければならないのである。(79頁)
ある意味、史料・史料群と心中するといった感じですね。(座談会:265頁)
無理無理、なにいってんすか、ははは(AA略)。と思っていたら、編著者が全部、これをマジで実行しちゃう人たちじゃないですか。うーむ…。
近代中国に関する研究をやっている人、あるいは志す人が、知っていて当然であるべき内容(入門なんだから当たり前ですが)。各章ともかなり優しく、丁寧に書いてあります。
座談会もかなり楽しい。
252-255頁のあたり(「研究のすそ野」)とか、もうね…。
というわけで、かなりオススメ。当たり前のことが当たり前に書いてあります。すげえ。
中国以外の専門家とかが読むと面白いじゃないかな、と思いました。西洋史の重鎮とかが書評したりは…、しないだろうなあ…。そういうもんでもないからなあ。
とにかく、どこの研究分野でも、それなりの蓄積があって、それなりの文脈があって研究成果が出てきてるわけで、それに敬意を持つのって、大事ですよね。こうやって開陳されてるならばちゃんと見るべきだし、なくても謙虚に見ないといけないよな…。
チャイナウォッチャーは、これをどう読むかな?あんまり芳しい反応があるとは思えないけど…。学者嫌いだからねぇ。
- 作者: 坂野正高,田中正俊,衛藤瀋吉
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 1974
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ところで、前作がでた1974年の日本にとっての「中国」と、今作がでたそれから38年後の2012年の日本にとっての「中国」は、ぜーんぜん違うモノになってしまったわけですが、さてさて、さらに38年後の2050年にはどうなってますかね。(どっちもなくなってる、ってのはあり得ないと思うけど。国民国家なめちゃいかんぜ。)2050年になったら、200年前のアヘン戦争直後なんて、とてもじゃないけど“近代”ではないよな。総理衙門だって“近代”じゃなくなるよね。ゆるゆると時代区分も変わるんでしょうなぁ。