読書:岡本隆司『中国の論理』

読みました。
安心の岡本隆司節でありました。

これまでの一般向けの書籍が社会経済モノであるならば、こちらは思想バージョンといったところでしょうか。

しかしですね、読後感としては、結構しっくりこないところがありました。

「そもそも中国の論理なんてもんを歴史的に一貫して議論できるの?」という点です。儒教の話が出て来て、伝統中国は大体儒教の用語を利用しないと文章が組み立てられなかった、みたいな感じで書いてあるんですが、どこだって共通の用語と文脈と含意なしでは議論なんかできんでしょう。中国ではたまたまそれが儒教の経典の言葉であっただけで、中身はどんどん移り変わっているはずなわけですよ。(ということを著者自身がどこかで言ってる気もしますが)

新文化運動(181‐183頁)がもたらしたのは、新しい共通の語彙でしかないのではないですか。そしてそれは「「士」「庶」の隔絶をも、なくしていく」ものではないのではないですか。結局、新文化運動によってもたらされた「古来の典故によらず、あくまで直截明晰、われわれもすぐわかる」のは、語彙と文脈と含意を「われわれ(日本で教育を受けたもの)」も教育によって、共有しているからにすぎないのではないですか。そして、その教育を受けられ、血肉にできている、すなわち、陳独秀の文章(翻訳であれ)を理解できるのは、「われわれ」が「士」だからなのではないでしょうか。「庶」との隔絶は、世界のどこを見てもなくなっているとはおもえません。

20世紀第一四半世紀に中国が経験した大変動は、やはり社会経済から説明されてしかるべきだと思います。というか、やっぱりねえ、思想で通史を語るのは難しいんじゃないかなー、と再認識しました。だって、西ヨーロッパの歴史、ギリシャ古典で語るの筋悪でしょ。

そもそもね、いうほど「中国は不可解」なんでしょうかね。結構突き詰めると理解できるところは結構あるというか、むしろフランスの世俗主義行き過ぎてブルカ剥ぐみたいな方がよっぽど不可解ですけどね。もちろん「同文同種」とかありえないんだけど、それでもやっぱり、東アジアは違う違う言っても近いですよ。自民党憲法案と人民共和国憲法が似てるというのもいわれがないわけではないんじゃないですかねえ。