読書:秋田茂『イギリス帝国の歴史』

イギリス帝国の歴史 (中公新書)

イギリス帝国の歴史 (中公新書)

ロンドンから極東はやはり遠い…。
話題の本書を読みました。基本的には前著と同じですよね。

イギリス帝国の歴史と言うよりも、イギリスの大西洋・インド洋帝国の歴史、といったところでしょうか。インドがイギリス帝国の核心であることは間違いないので、当たり前といえば当たり前です。アメリカ帝国論をするならば、必ずラテンアメリカが出てくるみたいなものでしょう。
だとするならば、中東とか中央アジアとかが華麗にスルーされているのも仕方がないことでしょうか。個人的には、海域史は重要だけど、すべてではないと思っているのですけども。

全体としては、19・20世紀のイギリス帝国の理解には、イギリスの「非公式帝国」とシティの「金融利害」が重要だよ、ということだと感じました。「製造業利害」より「金融利害」優先のほうが、まあ儲かりますわな。日本も「ものづくり」とか言ってる場合じゃないですねえ。(いやまあ、ほんとは金融の次どうすんのよ、ってのが今の日本なんでしょうけどで、イギリスはヘゲモニー国家であり、構造的権力であったと。
これ自体はなるほどなー、と思いますが、極東の話を見ていると、以下のように、うーむ、と感じるところもあります。

1:「非公式帝国」って結局なに?
p.104に「経済的にイギリスの圧倒的な影響下におかれた「非公式帝国」」…。うーん、今一つはっきりしない…。
ヘゲモニー国家」と「構造的権力」はよくわかるんだけどねえ。
とあるけど、具体的にどんな感じなんでしょうか。
前著では、オックスフォード帝国史研究叢書の第四・五巻で、中国・ラテンアメリカ・20世紀の中東が、イギリスの非公式帝国とされていると指摘されていたのですが…。それなら、まあなんとなくイメージがわかないこともないけれども…。

The Oxford History of the British Empire: The Twentieth Century

The Oxford History of the British Empire: The Twentieth Century

2:東アジアの在来秩序?
p.123「歴史的に見ると、東アジア世界では中華帝国を中心とする独自の国際秩序が形成され維持されてきた。明朝から受け継がれた「朝貢」と、中国沿海部での商取引を指す「互市」がそれである。朝鮮、ベトナム琉球、シャム(タイ)、ビルマなどは朝貢国であり、日本や西欧諸国は互市の対象であった。清朝は互市を通じた対外貿易を、広東一港に限定する管理貿易体制を敷いていた。イギリス政府は1792・93年に、中国との貿易拡大、自由貿易を求めて、特命全権大使マカートニー使節団を派遣したが、清朝乾隆帝によってその要求は拒絶された。18世紀末の東アジア国際秩序では、依然としてアジア側の論理が優先していた。」
なんというか、管理貿易?あれ、管理なのかな…。とりあえず、こちらのPDFと、これ↓。

中国訪問使節日記 (1975年) (東洋文庫〈277〉)

中国訪問使節日記 (1975年) (東洋文庫〈277〉)

つか、そもそも上の文章だと日本が広東で貿易してるみたいになる…。広東システムは「出島」と違うのでは?

The Canton Trade: Life and Enterprise on the China Coast, 1700-1845

The Canton Trade: Life and Enterprise on the China Coast, 1700-1845

ともかく、「朝貢システム」とか「互市システム」とか、適当な名前をつけると知らんうちにイメージ先行になるから気を付けろ!と書いた岡本先生は偉大だな…。

正直、20世紀初頭の話をするのに、基本的には19世紀以前の在来秩序とか歴史的経緯は結構どうでもいいんじゃないか、と思います。ほら、幕末の話をするのに関ヶ原からだと、いくらなんでも長いでしょ(cf.:「風雲児たち」)ww いや、もちろん面白いんだけどねえ。

3:日本は、イギリスの非公式帝国?
p.129 下関砲撃→「幕末・明治初期の日本も、イギリスの非公式帝国に編入された。」

幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏 (歴史文化ライブラリー)

幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏 (歴史文化ライブラリー)

イギリス側がそう思ってたっつうんならそれはそれでいいんですけど、そうでもないのではないでしょうか(本国も現地も)。アロー号だって下関だって多国籍派兵じゃん、そもそも1840年代以降の東アジアにおけるヨーロッパ諸国の活動は相互に牽制しながらなんだから、イギリス一人勝ちではないとおもいますけどね…。東アジアの側が、19世紀に周りにウヨウヨしだした毛唐をイギリス人ではなく、“ヨーロッパ人”と感じたことの意味って結構深いんじゃないかなあ。あと「瓜分」とか。相手が複数いるという感覚?
というわけなので、p.176の「日英同盟下の日本をイギリスの非公式帝国と位置付けるのは無理がある。」というのも…。
うーん、結局「非公式帝国」ってなんでしょうか?貿易とかでも、ある程度排他的で独占的な関係がないと「非公式」と頭についても「帝国」とは呼びにくいと思いますけども…。

ともかく、1920年代30年代に関しては、もろもろすごく納得なんだけど、19世紀においても同じような用語で説明できるのかなあ、と感じた次第。インド洋までだとどう見てもイギリスの世界なんだけど、やっぱり極東は遠いのね…。