「生活保護」=「乞食」という罪悪

世間で話題の次長課長の課長さん(違)ですが。
今回の件で分かったことは、いまさらながら、結構広範囲に以下のことを信じている人が多いということです。
1:援助は努力をスポイルする=悪である
2:金銭の授与は「乞食への施し」である=悪である。
これ、程度の差はあれ、一般に広く受け入れられている認識だと思います。で、この基本にあるのが
●:努力と成功は強く相関する
という思考です。四国の某高校の校歌のフレーズ「やればできるは魔法のことば」を思い出しました。

上記の観念からいえば、頑張れば必ずうまく行くのに、助けてもらうことは、頑張らなかったことを意味する、すなわち悪なわけです。しかも現金でもらうのは、さらに悪い。というわけで「生活保護」制度自体が、多くの人々にとって、悪であるということになります。募金などでも、しばしば「そんなのこっちがもらいたいくらいだ」との声が聴かれます。関係ない人がお金をもらうのはむかつくわけです。募金は自分がしなきゃいいのであんまり関係ないのでしょうが、「生活保護」制度は、その資金が、自分たちが払った「税金」から使われているという腹ただしいものです。
つまり、援助である・金で渡されるという悪であるばかりか、関係ない人が利益を受ける・自分の「税金」から使われると、四重悪であるわけです。「生活保護」なんて「ズル」い!「乞食だ」!

今回の河本叩きは、河本氏の親族の生活保護受給が「不正」であったことは、おそらくどうでもよいのだと思います。「生活保護を受給している」から、叩かれたのでしょう。(正確には、四重悪の上に、「不正らしいぞ、許せん」、みたいな感じだから、五重悪なのか)
自分たちはこんなに「苦労」してるのに、そのうえ「税金」をとられているのに、関係のない他人の「ズル」は許せない、と息巻いている人が現代日本にたくさんいるんですね(自称「苦労」なんてだいたい、「苦労したつもり」か「苦労するつもり」だってのはここでは置いときます)。

生活困窮者に対しては親族が扶助すべきだと主張する人も上記の意識をちゃんと持っていることでしょう。だから、自分や親族がどれだけ困窮しても、親族に助けを求めたりもしないと分かっているわけです。扶助を受けること自体が悪なわけだから、「生活保護」で他人からの施しを受けたりはしないのと同様、もちろん親族にも助けを求めたりしないわけで。
「働かざるもの食うべからず」なので、うまく行かなきゃ、「生活保護」申請=「乞食」になることを択ばないし、「親族」を頼って厄介者になったりもしないで、自殺するはず、なわけです。なるほど、よくできているものだと感心します。

というわけなので、河本さんのお母さんが「不正受給」ではないと主張しても無駄だし、自分がいつもらう立場になるかわからないと主張しても無駄です。「不正」かどうかはどうでもよいし、自分がもらう立場には絶対にならない(自分は「苦労」しているから今の位置から「転落」はしないし、よしんば「転落」しても自殺するから)。

「一億総「パンがないならケーキを」」化ですな。「結果の平等」か「機会の平等」か、という話がありますが、現代日本には「機会の平等」は確保されていると信じている人が多数いることがよくわかります。これは、90年代くらいから顕著なんではないでしょうか。日本も幸せな国だったということですね。