読書:梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』

梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』(人文書院、2011年)

「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか

「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか

現代中国経済に関する書籍として面白く読みました。
最初と最後が村上春樹なわけですが、個人的には、Haruki MurakamiあるいはCunshang Chunshuのスタイリッシュな感じが、苦手…(あんな風にスマートにはなれないから…嫉妬ですな。)

内容に関しては一回ブログ経由で読んでいますが、もう一回感想をまとめて、今後のメモとしておこうと思います。書くともう一回読んで確認するし。

第一章:
気になったのは、「壁」・制度・システムあるいは構造という語の関係。著者の用法ではなくて、一般論としての問題なんだけど、この「人間の社会のしくみ」を表す用語はナントカならんだろうか。法的制度や取引のルールはある程度厳密なものなんだけど、それで説明できないのは、当然なんだよね。それを包括しているような何らかの「しくみ」があるんだけど。まあ、その辺がよくわからないから文系学者には存在価値があるのか。

第二章:
「先進国」あるいは「西側諸国」の「正義」が自分勝手という話と、中国国内の労働者自身の意識が変化しているという話。どうしても思い出すのは、日本の労働意識の変化なんだけど、ワープアのはいくらでもあるんだけど、70-80年代の日本で労働者に聞き取りやってるのってあんまり見たことないな…。教えてエラい人!

第三章:
上原一慶『民衆にとっての社会主義』がベース。文革を臨時工の叫びであったという話。これは、初めて読んだときにえらく納得。上原以前は、都市部における臨時工の立場ってあんまり言及されてないよね。ま、大革命しても臨時工の立場は特に良くならなかったんだろうな、と思うとちょっと切なくなります。

第四章:
中国における住宅価格上昇についての話。EUと同様で、地方(EUの場合は国家ですが)が財政に関して中央の統制を受けていないので、地方の利害を優先して(というかそれだけしか考えず)土地の払い下げと開発を利用してガンガン投資を呼び込んで財政補填をしてるから、金融政策だけでは統制が取れなくなっている、このやり方は、土地の値上がりを前提にしてるので、今はバブルになっている。ただ、中国はEUと違って、地方政府にいざとなれば介入可能なので、ギリシャみたいなことにはならんだろうというのが著者の見立て。
ま、これをバブルと考えるか、GDPの伸びに連動した物価上昇の範囲に入るかというのが問題で、おそらく後者というのは同意するんだけど、なんかあって中国経済がコけると、土地バブルも一緒にはじけるんじゃないのかな、と思います。まあ、そんな簡単にはおこらんだろうけど。
一か所疑問というか、不思議に思ったのは、現代中国で県とか鎮とかの地方政府が信用危機を起こして、最終的に破綻したときに、一般の人々はどれくらい困るのか、というのが今一つピンときません。つうか、いま地方政府ってどんな業務をしてるんかな?仕事してないイメージがありますが…。開発が止まるだけじゃないん?

第五章:
「ワシントンコンセンサス」(自由化促進=投資・補助)と「ペキンコンセンサス」 (現地政権と関係を保ちつつ投資)のあいだで揺れ動く西側というところから話が始めて、米中の経済(おもに通貨・金融)政策においては、結構協調してるという話。
中国封じ込めとか言ってるけど、そもそも中国経済がグローバル経済の中に入ってなかったのなんて、1940年代から1980年代までの半世紀だけじゃないですか。「中国の台頭」とか言ってるうちはダメってことですな。

第六章:
第四章の話のような地方と中央の乖離は昔からという話。ま、地方の予算外資金(というか政府業務が公費だけだと足りない構造)は昔からっちゃ昔からなんだけど、その意味が大きくなったのは、清代に入ってからなんで、明清って言っちゃいかんのでしょうな。あと、その辺は勝手に投資するっていう話じゃないんで、「融資プラットフォーム」と結びつけるのはやっぱりちょっと強引かな、と。それこそ張之洞あたりがハシリで、実行されたのはホントに1990年代以降な気がします。日本でもそうなんだけど、歴史的な文脈ってそんなに重要じゃない気がします(それとも史料がのこってないだけなんか…)。

あと、安定した通貨制度が中国で根付いたのは「国民政府よりもはるかに鞏固な基盤を持った、中国共産党政権の成立を待たねばならなかった」ってのは、なんか違う気がする。抗日戦争が大変だっただけじゃないでしょうか。もちろん国民政府はもうダメだったのは知ってるつもりですが…。

中華人民共和国誕生の社会史 (講談社選書メチエ)

中華人民共和国誕生の社会史 (講談社選書メチエ)

あ、でも「社会の柔軟性をどの程度許すかは、中央政府がきめること」ってのは、確かに昔からそうなんでしょうな。なんだかんだ言って、伝統中国の権威は皇帝に一元化してるという話を思い出します。

第七章:
かつての権威主義国家は、なんだかんだで投資を呼び込むために欧米近代的な制度を導入しなければならなかったのに、中国はなぜそうしなくてもいいのか、という問題提起から始まって、それは中国が統治と経済を切り離していたから、という結論(だから政治体制と経済体制のあいだに衝突が起きない)。なので、最近は統治が経済に介入し過ぎでいろいろ問題が起きているという話でした。うーん、それでも中国の経済規模からするとそんなに大きな意味があるほど共産党が変なことをしてはいない気がするけど…。
趙紫陽ラビア・カーディルの事例は勉強になりました。

ところで、期待インフレ率が上がって、預金取り崩しや買いだめに走って、物価が高騰というのは、よくあることで、前の章の話とかぶるんだけど、清の昔から政府の経済介入に対しては過剰に反応するのが中国経済な気がします(コメの地方政府買付をやると予告すると米価が需給関係を無視して上昇するのは、清代に常見)。
あと、反右派闘争のころのリベラル知識人がそろいもそろって“経済オンチ”というのに、苦笑。ホントにそうなんだよな…。阿堵物に困ったことないからかね?

第八章:
「普遍的な人権」とはなんぞやという話。まずはアマルティア・セン自由権社会権の包括的実践が言及されて、それからハンナ・アレントヴァルター・ベンヤミンが言及されて、結論として、他国の社会権に介入するのは大変(暴力を伴わざるを得ない)ので、まずは自由権を侵害しないように積極的に声を上げるのが良いのではないかという提言。
とくに意見はないのですが、途中でちょろっと言及される竹内好は、個人的にどうしても好きになれないんですよね…。

第九章:
日本人の対中感情に関する話。言論の左・右が取り上げられるが、まとめると本章の最後の通り、脱亜論的中国批判(中国はあてにならん)・実利的日中友好論(経済的な結びつき重視)・「新中国」連帯論(今はダメでも中国をよくすることができる)という三つの中を行き来しているということでした。で、興味深いのは、この三つのどこに触れるのかは日本の国内事情によることが多いという指摘。そういう時に、言及されるんだから中国というのは、良くも悪くも日本にとって特別な国なんですな…。

隣人というのは否応なく基本的に仲良くしなきゃいけないんだけど、そんなにコミットメントしなきゃいけないものなのかなあ…。こっちも人間、あっちも人間、であって特に何も思いません。なんというか、コンビニの店員さんとおなじで、まあそりゃ愛想がよければうれしいけど、だからといってたくさん払うわけじゃないし、態度が気に入らないからって、遠くまで歩いて行く気にもならないわけで、しぶしぶ買うというところでしょうか。そこで、“コンチクショウ”とは思っても、“苦情を本社に入れてやる”・“石投げてやる”みたいのは、正直下品だと思うな、くらいの感想です。おつりごまかしたら文句言うけど。そういえば中国で“つりが足りない”って文句言って帰ってこなかったことはないな。むしろクレーム言ってどうにもならなかった覚えがないのはなぜだろう?こっちで考えてるハードルが低すぎるのかな?

第十章:
フリーチベット」的な、無責任なのは論外だけど、まったくコミットメントせずに経済的な問題に帰結したりするのもあまりにも他人事過ぎるという話。なんというか、“民族問題”は、結局マジョリティが自らがマジョリティであることを理解できるかにかかってるんでしょうな…。いや、これ難しいよ。だって、マジョリティのマジョリティはバカなんだもん…。著者の意見にはもちろん同意するんだけど、実行可能かというと暗然たる気分になります。まあ、どうするかといわれてもどうしようもないんだけどね…。

第十一章:
村上春樹の中国観に関しての話。村上春樹の文章が、漢文世界(中華世界というのは概念として変なので、ここでは漢文使ってた世界という意味でこっちがベター)的というのは結構、納得しました。で、それはおそらく戦後の日本の良心であると…。(あれ、これ藤井省三先生の所論?確認してないのでわかりません)

あー、昭和のころの西アジアとか中央アジアの研究者はどのような考えを抱いていたんでしょうか…。いまの漠北研究者は、“中華世界”に対して何か得体のしれない敵意を抱いている(その一部は反中を通して、右翼的になってますが)ように見えますが、その写し鏡なんですかね。しかし、普通の日本に暮らす人々にとって、内陸アジアというのは本当に遠い世界(というかレコグナイズしてない空間)なわけだから、チベット問題とかには、具体的な行為への批判を除けば、余計なコミットメントしない方がいいんだろうな。
でもそういう態度が続くと地域研究する人がいなくなるから、よくないんだよね…。

というわけで、二回通読したんですが(その割には理解してないところだらけだ…)、読んで思うのは、中国は特別な国なのかなあ、ということでした。まあ、特別じゃない国なんて地球上にありゃしないわけですが、日本にとって特別なのかな、とちょっとハテナが浮かんだわけです。多くの日本人にとっては“中国”(ここに中華人民共和国のみならず、香港・マカオなどの特別行政区や臺灣、あるいはシンガポール、そのほかの東南アジアの華人、欧米などの中国系住民がどのように含まれるかは別の大きな問題ですが)は特別だったわけで、それをどのように解きほぐしたらいいのか、解きほぐさなくてもいいのか。どしたらいいんかな、ということを思います。
とまれ、なんだか久しぶりにちゃんとした現代中国に関する一般書を読んだ気がしますなあ。もっとちゃんと勉強しよう…。