天人相関と末劫の挽回
石原都知事が東北関東大地震を「天罰だ」といって、その後撤回しました。
それ自体は、また言ってるよジジイ、でしたが、その後、筑波大学の仲田誠先生の論文が発掘されました(ご本人の意に副っているのかはわかりません。なんせ30年前の論文だからねえ)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~info-pat/disastersandJ.htm
なるほど、「天譴論」=「自分たちの行為は天の怒りを招いた」という志向が日本人、特に大正期の日本人に広く受け入れられていたことはよくわかりました。よく理解できます。
このような志向が中国においても存在するということで備忘録。
中国の場合は、天人相関、あるいは天応論といったかと思います(うろおぼえ)
人間のしたことは、天行に関係する。すなわち人間のしたことは気象や星の動きに反映するというものです。諸葛亮が五丈原で死ぬ直前に自分の星が落ちるのを見た、という話はよく知られています。
この考え方、「天譴論」によく似てる気がするのですが、ちょっと違います。「天人相関」の場合は、人間が頑張れば何とかなるからです。国中で日照りが続けば皇帝は自らの行いや政治を省みます。省みることによって雨が降る、と考えているのです。
19世紀になると、人間の悪行が積算して、世界が終る(「末劫」が来る)という思想が民間信仰の中で強い力を持ちました。世界が終るからどうするか。…いいことをするのです。頑張って善行をしたものは救われるし、善行がたくさん行われれば「末劫」は回避されます。
そのため、善行を勧める宗教結社が次々に設立され、政府機能を補う形で民国期には様々な慈善活動が行われました(関東大震災の際にも日本に派遣されています)
このようなことを考えると、自分の行為を天行が関連するという志向はおそらく東アジアでは一般的なのだろうと思います。
ただし、日本でそれが「あきらめ」「はかなさ」に行くというのは不思議です。悪くするのが人ならば良くするのも人という考えではないんですねえ。
「はかなさ」「あきらめ」は災害の原因は「天譴」であるという思想から、もう一つステップがあって発生してる考えなんだと思います。
そこん所がほしい!