ふたたびツイッターからの連想

いま、とぅぎゃったーで、以下のものを見ていました。

授業中の出来事をWeb上に利害関係者の許可無く「晒す」ということについて

まあ、なんつうか学生も若いからそういう、“憎悪”を表面に出して正義を貫きたい!!!みたいな感情もあるでしょう。それが“若さ”だし“バカさ”でもあります。(10代はいいけど、20過ぎ、“若さ”丸出しはカッコワルイけど)

で、それをレポートで書いてきた奴を教官がブログでさらすことの是非ですが、さきに宣言しときゃいいんじゃないか、とおもいます。それぐらいは自分の発言に責任持たせるのはあたりまえでしょ。別に実名出してあざ笑うとかじゃないんだから。つか、だれが書いたかなんて、自分で名乗り出る以外、まずわからんでしょう。

というわけで、そこまで過保護にすることないんじゃない、というのがタヌキの意見ですが、それとは別のことを思い出しました。

“差別”ってなんであるのか?
昔、大学一年生の時に聞いた話で、とても納得がいったのは、インドのカースト制の社会的機能です。カースト制度はさまざまな職業の多能性の固定し、社会流動性を抑制する、と。差別はいいか悪いかという話は置いといて、特定の生まれの人を世襲で同じ職業や立場に設定すると、確かに社会流動性は抑制されて、もしその時の分業がうまくいっているものであれば、その分業構造が安定的に運用できるわけです。社会構造的には、なるほどねーと思います。あくまで社会構造として、ね。

では、いまだに広範に存在する、女性蔑視・同性愛蔑視・外国人蔑視あるいは制度などは、なぜ存在するんでしょうか?なんか社会的な理由があるような気がします。
それは、別に権力者とか男が自分の既得権益を、っつう短絡的な話ではなくて、マクロな意味でです。
いろいろなものを区別していかないと、この世のものが認識できないっていう人間存在一般の話まで抽象化するようなものではないんですが、実際、“差別”って何のためにあるんでしょうかね。

なーんかありそうな気がするけど…。
何度も言いますが、短期的・ローカルな政治・社会的な構造を問題にしているのではありません。もっと一般的な社会構造論の中でどうか、ということです。

うーん、なんだろうなー。