男という身勝手なイキモノに権利はあるか

ついったーのどこぞでは、別居中に奥さんが堕胎をしたことに関して議論(?)になってるらしいですね。かわいそうなのは、とにかくその子本人です。こういう話を聞くと、生まれてくりゃ幸せとは言い切れない気もして、生まれてきてもどこかに不幸がビルトインされてる気がして、暗然たる気持ちになります。しょんぼり。まあ、生きてるってことはそういうものなのですがね…。

さて、まあ、それはともかく、今回の件を見聞きして、ある中国映画を思い出しました。

胡同のひまわり [DVD]

胡同のひまわり [DVD]

これを「親子の愛と葛藤の物語」だと思える、能天気なアホウにはなりたくないですな。ひどい話ですよ。
絵描きの親父が勝手に息子の将来を心配して、息子の彼女に堕胎させ、息子のほうは、そのあと親父にその時の復讐のために、(さっきの彼女とは別の女性が妊娠した)初孫を堕胎させるという映画です。で、もう一人孫が生まれてよかったね、と。書いてて、本当に頭にくる。
で、もともと親父の奥さんが、親父の親友と寝てた、というのが女側の復讐らしいですけどね。アホか。とりあえず、この親父と息子は地獄行きだな。ナメクジにでも生まれ変わるがいい!これを男の身勝手として描き出しているならば、張楊はなかなかやるな、と思いますがね。

まあ、この手の話は、別に中国に限らず、割とよくある、というか。
昭和の日本(いまだって結構あるし…)なんてこんな話のオンパレードだろ。聖書とかでも「石女」に対する扱いすごいぜ…。

というわけで、男は基本勝手だし、勝手な男を抑えるためには、普通の男は我慢して、身勝手なやつを抑え込む法的な根拠を作り上げる方がいい世の中なんだろうなあ、と思わざるをえませんね…。

「紅い「大爺」たち」の残影

日経BP「キーパーソンに聞く」:神戸大学梶谷懐先生に聞いてみたの巻、前後編が公開されました。
前編はこちら
後編はこちら。

聞き手の山中記者もいい感じでかなり楽しく読みました。勉強にもなるし…。合点に行くこと多し。
これ、朝日出版社のコラムとかと並べて、また本になったりするんですかね。会社違うから無理かしら。

キーワードは順番に、「対中取引の倫理性」、「社会階層の存在」、「領土問題の重み」、「『民衆の暴力』」、「私的財産権の意味」などなどです。…たぶん。間違ってたらすいません。というか、元記事を読むべし。

というわけで、落ち着いた語り口に癒されつつ、いくつか感想をメモしておきます。これ、個人的なメモですんで、長い。長いとか文句言われても困る。公開したからと言って人に読ませて説得するのが目的だと思ってもらっては困りますよぅ…。こんなこと考えました、ってだけですからね。


前編1頁

「こちらが変わろうと思って歩み寄る姿勢を見せても、相手の反応が返ってこないと、とても空しくなりますよね。」

「変わろうと思って」るのは日本の一部の知識層だけですからね…。Y吹Sみたいな融和的なんだけど、ちーとも変わってない人とかがむしろ足を引っ張ってて、こちら側もいろいろ変われないんですよね…。
なんにせよ、「知識層」だけ、というのが、今回のキモかもしれません。

前編2頁

「ところが現在は、お金儲けを追求することと、理念が結び付かないんですよね。どちらかというと左の側からは「金儲けのためなら中国がいくら人権侵害をしていてもいいのか」という批判が出てきますし、右側からは「領土問題はどうなっているのか」という批判が出ますよね。

 これでは、まったく倫理性の裏付けのないところで、お金儲けをしないといけないということになってしまう。だから、新しいなんらかの意味、理念を、中国とのビジネスに乗せる必要がある。これは簡単なことではないです。」

うーん…、これはむしろ「市場の論理」と「統治の論理」を混ぜてしまっているような…。右派と左派のわかったような批判を敢然と跳ね返して、商売をしてゆくことのほうが大事な気もします。先に「フェアネス」を用意しなくても、臆断と偏見をできるだけ排除していくことのほうが重要というか。向こうは難しくても、こちらだけでも、ね。もちろん、相手方の商慣習とかは理解しておく必要はありますが、それは取引するときにどの言語を使うか、みたいなもんなので、そこに公正性があればいいんじゃないですかね。それ以外の普通の人の考えはむしろ、ちょっと横においといて。

前編2頁

「現実問題として、近代的な層(知識人層や海外ビジネスに関わる人達)以外の人々と日本に住む私達が、理念を共有するのは無理だと思います。もちろん、個人同士で長い時間をかければ別ですが。」

「近代的な層」というか、「エリート層」というべきだし、「日本に住む私達」というか、「日本に住む“知識層”である私達」でしょうね…。方望渓と物茂卿ならまあ、話が通じないことはないでしょう(徂徠先生の中国語は怪しいと思いますがw)。
現代日本では、階層性が明示されないので、何となく私達と言ってしまいますが、日本でも“話の通じない奴ら”がいるのですよねえ。
なんだかこの階層の問題は、銀の世界と銅銭の世界の二重性みたいなのも思い出しますね。開港場でイギリス人と中国人商人はそれなりに仲がいいんだけど、一歩外に出ると教案頻発、フランス人宣教師殺されまくり、みたいな。この手の話は、世界中の植民地で枚挙のいとまなしというか、どこでもありがちですよね。教育程度が上がって話ができると人間はあんまりケンカしないんだけど…、というか。万国のプロレタリアが団結する、なんて夢想やったんや!

前編3頁

「いろいろな考え方ができると思いますけど、大学とか知識人同士の交流と言っても、今のところ圧倒的に多いのは公式のルートというか政府間を通じてのものです。政府間の関係がうまくいっているときは来るし、悪くなると止まってしまうというようなところがあります。つまり政府間の関係に付随したものでしかないんですね。大部分の「民間交流」には、そういうところがあると思います。」

結局、お金の出所が政府しかないですからねえ…。

前編4頁

梶谷:烏坎村について、最近朝日出版社のブログ(「烏坎村重慶のあいだ」)に書いたんですけど、現地を取材された方からこういう話を伺いました。
 最近、烏坎村に行くとどういうことがあるかというと、住民から必ず尖閣の話をされると。基本的に烏坎村はとにかくすごく反日的で、それこそ「日本と戦争しろ」とか、「民主的」に、そういうことを言いだしかねない雰囲気がある。

Y:民主的に対日戦争を議決しかねないと。そりゃ大変だ(笑)。

梶谷:まあ、現状では笑い話にもできますが、こういうエピソードを考えると、今のままで中国が民主化してしまうと、それこそ議会で戦争を民主的に決めてしまいかねない、その可能性は考えておかないといけないと思うんですね。

日比谷焼打ち事件を想起しますな。ナチもそうか。民主主義は過激な手段を排除しない、という話ですよね。
ま、おおくの西側の論者は、“民主化”というのは自分の正義の実現くらいにしか思ってないので頭が痛いところですが…。

前編5頁/後編1頁

「そこで何が出てくるかというと、民衆が政治に不満を持って非常に苦しい状態で立ち上がることを「正義にかなったことだ」というふうにとらえる傾向があるんです。」

「官逼民反」ですか…。これ、18世紀後半にやっと出てくる言葉だと思うけど、それ以前ってこの手の感覚はあるのかなあ。水滸伝とか明末の陽明学とか、ちょっと違う気がするのよね。
なんかこの話だと、えてして易姓革命がー、儒教は武力討伐の思想がー、みたいなことを言いがちだけど、実際に不満を持って暴れて実際に「革命」をやったのは、お父さんの文王が死ぬほど我慢して、そのあとを継いだ周の武王だけなわけで。教祖の教祖だけやん。儒教は関係ないんでしょうなあ。

後編2頁

「「暴力的な状況が起こることをきっかけに、自分の都合のいいように政局を持っていこう」と考える人たちが間違いなく出てくるんです。文革期に毛沢東自身が、民衆の暴力を利用して、劉少奇から政治的実権を一気に奪還した、という事実を思い起こす必要があります。」

これ、最初にやろうとしたのは西太后義和団ですよね。義和団は大失敗。で、うまくいったのは毛沢東と。明末はどんだけ都市で人が暴れても、それで中央政界が動くことはないわけで。やっぱり、「人民」の意思が政治的な意味を持つって共産党の論理なんだなあ。毛沢東の時代になって初めて「動員」の意味が出てきたんですねえ。

中国社会と大衆動員―毛沢東時代の政治権力と民衆

中国社会と大衆動員―毛沢東時代の政治権力と民衆

後編2頁

「沸点が低いというか。どう言ったらいいんですかね。暴力行使に対する臨界点は低いですね。確かに。
 1つは今言った通り、民衆の暴力に対する見方が、その道義性によって左右される、ということがある。もう1つ重要なのは、個人にとっての「私的財産権」、その不可侵性というものが、中国ではものすごく弱いんです。領土問題とか、ナショナリズムとかいった問題で政治的対立が生じても、個人のプライベートな部分については関係ないから、触れないようにしましょうと、日本だったら絶対そう考えますよね。中国ではその辺の境目が非常に弱いです。」

・「暴力行使に対する臨界点は低い」:表現が難しいですよねえ。むしろ中国の人は、「怒り」という感情の表明をすごく理性的というか、理知的に使っていて、「暴力行使に対する臨界点」はむしろ日本より高いんじゃないかと思いました。個人的な経験では。
ただ、いったん手を出すと、えぐい、というのはあるようにも思いますが。
・「個人のプライベートな部分については関係ないから、触れないようにしましょう」:これも、今の日本でだってそうでもないと思います。責任が有限ではないというか。悪いことすりゃ、一族郎党皆殺しにしろ、的な。くだんの週刊朝日の思考なんて、思いっきりこれでしょ。なんか、これは「最近の中国化の趨勢のあらわれである」という人もいますが、日中韓は昔からわりと責任が無限(というか、恣意的)なんじゃないでしょうかね。ところで、西洋は責任が有限って、よくいうけど、米・英・仏・独が念頭なんでしょうか。正直、ようわからん…。というか、これも「西洋の理念」であって、「西洋と呼ばれる地域」の現実ではないような気もしますけど。

後編3頁

Y:持っているやつはどうせ悪いことをしているというか、ずるいことをしているんだからという。

これ、聞き手の山中記者の発言ですが梶谷先生は同意してるっぽいので引用しました。
で、ここなんですけど、「金持ちが悪い」っていう話になってるのがちょっと飛躍な気がします。打ちこわしでも民変でも、反乱でもなんでも、「悪い金持ちがいる」「悪い金持ちには何をしてもかまわん」だったと思うんですよね。で、これを共和国初期に階級を設定して「金持ちは悪い」に変えてるわけです。なので、建国当初的には「金持ちは悪い」でいいんですけど、今は「悪い金持ちがいる」に戻ってる気がするんですよね。で、「小日本は悪い金持ち」と。

後編3頁

梶谷:「豊かになっていくためには私的財産権をまず確立して、不可侵なものだということを社会が認めて、そこから個人の競争が始まる」というのが西洋的な、そして日本人も持っている常識ですけど、中国では必ずしもそうではない。
 もちろん最近はかなり私財権の保護が重視されるようにはなってきています。けれど、たぶん日本よりも、「私的な財産」に対するイメージはかなり悪い。「本来はみんなで分け合うものを独り占めしている」というようなイメージがどうしても「私」という字にはつきまとってしまう。

Y:うーん?

梶谷:「公」と「私」と言うと、西洋的な概念だと、それは公的なものと私的なものというのを領域で分けているんですね。「私的な領域ではカバーできないものは公的な場で話し合いましょう」という話になるんですけれども、中国の文脈でいくと、「公」と「私」の区別が道徳的な善し悪しの話になってしまうんですよ。

そうそう、「私」というのは普通話だと、そもそも悪い意味なんですよね。「自私」とか「営私」とか。しかし、だからと言って私的所有全般が悪いというのではなくて、「私」してるやつがイカン、私的所有の中には「私」があって不当に独り占めしてるやつがいるのだ、という考えが出てきて、それなら「営私」してる悪い奴は懲らしめてやれ、となるんだと思います。もちろん、太平天国みたいに、ここから私的所有そのものが悪い、という考え方に飛躍する可能性ってのは十分あって、実際共産党もそうだったわけですけど、「中国の文脈」から「「公」と「私」の区別が道徳的な善し悪し」と言ってしまうと、「私的所有」=「私」=全部ダメということになって、ちょっと踏込みすぎなのかなあ、と感じました。
悪者がいて、そいつに懲罰を加えるべきだ、という結構我々もわかる論理があって、その矛先が日本に向いた、という話ではないかな、といったところで、次のご発言です。

梶谷:「公」というのは全面的に正しいことですから、「国有化」「公有化」を認めちゃうと日本が言っていることが全面的に正しいということを認めることになる。否定しようとするなら、「日本全体が間違えている」と言わざるを得ない。

Y:日本はどちらかというと、問題を先送りするために国有化、公にして無色化しようとしたのに、むしろ、日本は尖閣諸島保有を全面的に正しいと宣言したに等しい、ということですか。

そもそも日本政府は、尖閣諸島を土地所有者から「購入」するっつってたのに誰かが「国有化」だって言っちゃってからこじれたみたいな記事を読んだ記憶がありますなあ。まあ、さきにもう少し先方と話をつけといてから「購入」しとけばよかったんでしょうけどね。ともかく、この尖閣の件で、面倒が広がった直接のきっかけは、地権者がここが高値と売り抜けよう(あんな地雷抱えてるのイヤだろうし)として、死にぞこないが一花火あげてやろうと無茶を始めたところにあって、政府はバタバタしてるうちに不信感だけ生まれちゃったといったところなのでしょうか。
くだんの死にぞこない、最初の件でつけた花火が湿気っちゃったので、別の花火をほかの死にぞこないと準備中ですけど、どうなるんでしょ。

それにしても、日本語でも「国有化」はまずそうだよな。一言聞いただけど、「え、あそこに海保の基地でも作るの?」ってイメージだもんな。

後編4頁

梶谷:中国の左派というのは、日本でイメージする「左派」とはかなり違っていて、まず非常に愛国主義的ですね、ナショナリスティックというか。ただ、これはヨーロッパなどでも同様の傾向があります。

というか、日本が、なぜか改憲がウヨク、護憲がサヨクになってるけど元々右か左かは経済政策とか国家観の問題だから、中国の「左派」はもともとの用語的にはバッチリですよね。

後編4-5頁

問題は、私的財産への姿勢です。中国では「私的財産権(の強化)に反対しているのが左派」と考えればほぼ正しいと思います。

Y:なぜ反対するのでしょうか。

梶谷:普通、現体制を変革して貧しい人を救おうとするのが左派の発想ですよね。それはもちろん中国の新左派もそうなんですけど、その実現の手法として、私的財産権の制限を強調するところに特徴があるわけです。
…(中略)…
梶谷:彼らの主張は、国がどんどん前面に出なさいということですね。その意味で、強烈な「国家主義者」でもあるわけです。
…(中略)…
 それに対して自由主義派、リベラル寄りな人たちは、逆に「私的所有権、法治が徹底していないこと、ビジネスの私的な領域に政府がどんどん介入してくることが、富の分配に不公平を生む。政府や国有企業へのコネクションがない人たちはいくら頑張ってもお金が得られない。そこを改め、政府の介入を減らして公平なルールで競争をしなさい」と主張しています。まったく方向性が逆ですね。

「自由」か「統制」か、って、…これ、清代からずっとおんなじですやん…。まあ、利権が絡むんで派閥抗争っぽくなってる面があるのは宋代っぽいともいえるかもしれませんね。
ちなみに、清代の「務実派」と「道徳派」に関してはこちらの46-52頁。

地域社会論再考―明清史論集〈2〉 (研文選書)

地域社会論再考―明清史論集〈2〉 (研文選書)

梶谷:和諧社会というのは「現状に矛盾があるのだから、そこを解決しましょう」というだけのことですから、問題は手段ですね。手段として、もっと西洋的な法治を進めましょうというのか、国の介入を増やしましょうかということで対立しているんですけど、胡錦濤はどっちの方向性を考えていたんだろうかというのは今になっても、私にはよく分かりません。

ここで「ブロン」ですよ、「ブロン」!

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

結局、どっちつかずでしたよねえ…。上海幇はウルサイし、経済規模は拡大するばっかりのうえに、あちらこちらでナンチャラショックとかナントカ危機とかやってるし、どっちに行っても大変そうだから、スローガンで河蟹社会を提唱してお茶を濁しておくしかなかったのではないでしょうか…。一つ一つの迫りくる課題に対する対処は結構うまくやってた気がしますがグランドプランはね…。二番手三番手の連中は結構言いたい放題でもいいけど、決めて責任背負ないといけない一番上は大変だよなあ、と思います…。もう結構そういう決断ができないくらい中華人民共和国はおっきくなってしまったのかもしれないですなあ…。

梶谷:結局、中国の中では「権力」というものに「何でも付いてくるん」ですね。人事権、予算、端的にお金、むろん称賛も付いてきます。これは政治だけではなくてアカデミズムの中でもそうです。例えば中国の大学の学長とか学部長とかって、本当に偉くなりますから。

Y:本当に偉いって(笑)。

梶谷:日本では学部長というのはみんな押し付け合いで、誰もやりたいと思ってやっている人はいないですから。

断言しちゃっとるw
学者さんって、大変なんですねえ…。こんなとこだけ内枠暴露。
ところで、中国の大学の学長と科学部長は、幹部が天下りでやってくるって話を聞いたんだけど、そうでもないのかしら。昔の話?

Y:お話を聞いていますと、私より公、というあたりは、戦前ぐらいまでは日本も似たようなものがあったんじゃないかな、なんていう気もぼんやりしますが。

梶谷:アジアと西洋とを対峙させたときに中国と日本で共通する部分はもちろんあるでしょう。しかし相対的には、日本は西洋の影響をより強く受けて、中国より西洋に近いところもあります。その辺はとてもややこしいですけどね。

この辺は山中記者に同意。川島武宜を思い出しますな。

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

で、この点が、今回の梶谷先生のお話を読んで感想ともつながるんですが、現代の中華人民共和国を構成する要素ってなんなんだろうな、という話です。


個人的には、冷戦、というか1949年以降の経験なんではないだろうかなあ、と思うわけなんですね。韓国は知らないですけど、臺灣とか香港だとちゃんとPirvateというか「私人空間」ってのはある気がするのです。まあ、あるといっても日本と同程度というか。イギリスとかフランスほど冷たくはないというか。
で、この辺の、日本・臺灣・韓国・香港と中華人民共和国の何が違うって、1949年以降の経験なわけですよね。
で、中華人民共和国の性格を決めるものってなんだろうな、と。そこで、今回の梶谷先生のお話では、「民衆の暴力」というのが話に出ていました。
で、この「民衆の暴力」って、なんだろう、と思ってたんですが、その源泉というか成功体験って、毛沢東率いる中国共産党の革命だったわけですよね。で、その中国共産党の中核には、「紅い「大爺」たち」がいたのだよなあ、と思い出しました。昔読んだ、山田賢『中国の秘密結社』からの受け売りです。
共産党は、かなりの程度、18世紀以来増加してきた民間の秘密結社と人員的にも作法的にも共通していたわけです。で、その秘密結社というのは何をするものかといえば、一義には相互扶助なわけですけど、その相互扶助はしばしば抑圧者に対する反抗(ありていに言えば「悪い金持ち」を襲撃して金品をふんだくってくる)ために人間を動員するときの芋づるでもあったわけですよね。で、それを共産党は見事に利用して、日本軍と国民党を大陸から叩き出した、と。
その結果、権力闘争やらなんやらで色々いなくなったとはいえ、秘密結社的な性格はまだまだ色濃く残っている可能性があるわけです。習近平の親父だって、30-40年代は陝西で革命根拠地つくっていろいろやってたわけでしょ。それがやっと死んだのが2002年なわけだから、まだまだその辺の雰囲気が払拭されるまでは、結構時間がかかりますよね。もう一世代くらいかなあ。

ところで、『中国の秘密結社』には以下のように書かれています。

「あれほど巨大なネットワークへと生長していた秘密結社が、中華人民共和国成立後、なぜ、一たびは姿を消したのか。…それは秘密結社が在地社会において確実に一部分を担ってきた秩序維持機能も、そして、いつ果てるともない全体秩序融解状況の渦中で、帰属しうる安らかな「家」を求め続けた夢も、ともに別の存在によって代替的に実現されたからである。中国共産党とその国家建設によって。そこに確かに「爾も我もない」共同性、貧富の均平、平等な「兄弟」により満たされた巨大な「家」という統合が出現したかに思われたとするならば、そして社会はすでに不安定で競争的な「散沙」ではなく、緊密な「一体」であるかに思われたとするならば、秘密結社という氷山は再びそのような全体社会へ融解していくであろう。しかしそれは「秘密結社」という明確なかたちの結晶、輪郭が溶解、液化してみえなくなっただけであり、「秘密結社」自体が消滅したわけではない。むしろそれは稀薄ではあるものの、社会全体へ拡散した状態であるともいえるかもしれない。もしそうならば、それはある条件さえ満たされれば再びかたちを持った組織として結晶し、社会に沈殿し始めるであろう。」203頁

中国の秘密結社 (講談社選書メチエ)

中国の秘密結社 (講談社選書メチエ)

共産党が統治する中華人民共和国は、ある種、拡大した一つの秘密結社となっていたわけです。で、それはだんだんと融解をはじめています。経済的にも、社会的にも、建国当初に設定された箍はだんだんと消えつつあります。
そのなかで、確かに「単位」という言葉などは死語となりつつあるようですが、いまだ共産党中華人民共和国の大枠は厳然と存在しています。まだまだ過渡期であるようです。とするならば、当分の間、秘密結社的な性格を帯びた共産党政権の、人民動員は行われるでしょうし、おそらく反日デモっぽいものは今度も頻発するでしょう。清代の秘密結社の根幹のスローガンは、「反清復明」という見果てぬ夢でしたが、「抗美援朝」やらを経由して、現在のスローガンは「反日」なわけです。
しかし、秘密結社的な記憶を持っている人々は退場しつつあります。太子党などと呼ばれる二代目三代目の連中は、初代ほどリアルに秘密結社的人民動員をできるようには思いません。あんな派手で稚拙な工作で人民を動員できると思ってた薄帰来の無様な姿を、山西で戦った薄一波が見たら、頭を抱えたんじゃないかと想像します(ちなみに、「打黒唱紅」を始めたのは、2007年に親父が死んだ頃でしたね。まあ、息子のほうはヤケッパチという話もありましたが)
とするならば、現在よく見られる、この手の民衆の暴力の動員は、ゆるゆると世代が下るにつれて頻度が減っていくのではないかと思います。それと同時に、もし中華人民共和国が、社会統制を放棄し、単なる中核となって、よくわからない下部を切り捨てるならば、中華人民共和国共産党はそのまま権力のありかとして存在しつつ、一般民衆が生きる世界は今よりもはるかに流動性が高いカオスな状況となるかもしれません(18・19世紀の移住民社会みたいな)。その時にこそ中国は「もっと得体のしれない、本当の恐怖みたいなもの」(前編1頁)として、我々外国からのまなざしの前に現れるのかもしれません。いや、もっと我々が理解できる存在になっているかもしれませんが。ま、さきのことはわかんないですよね。