歴史ってナンだ

興味深く拝読
https://cakes.mu/posts/12244

やっぱ金払わないとちゃんとしたもの読めないよなー、と思いつつ、引っかかったのは以下の点。

あとは、最近だと産業革命の説明みたいな本を少し見ているのだけれど、どれもぱっとしない。
・・・ケネス・ポメランツ『大分岐』(名古屋大学出版会)
・・・アセモグル&ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』(早川書房、上下)
・・・ジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』(草思社文庫、上下)
・・・デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(インターシフト)
・・・アラン・マクファーレン『イギリスと日本』(新曜社
・・・E・L・ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』(名古屋大学出版局)
……結局、それが様々な偶然に支配された奇跡でした、ってことになってしまう。

うーん、どれを読んでも、なんだか見通しがはっきりした感じがしないし、また他に応用できるものが全然ない。歴史って細かくきちんと調べれば調べるほど、些末な1回限りの出来事や条件が次々に出てきて、他の可能性の余地がどんどんなくなってきてしまう。その数多くの出来事や条件の中で、どの要因を重視するかは論者による。でも、真面目に調べた本はすべて、他に可能性はなく、そうなるしかなかった、という結論に行き着いてしまうような。なんか、あまり外的な条件に頼らず内生的に産業革命を説明した話として、イギリス人が産業革命を起こしやすい価値観を受け入れるように進化したから産業革命ができた、というグレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』(日経BP社、上下)の説明に最近ではもっとも説得力を感じてしまうようになってきたんだけど……。

欧米左派の自己批判が、「西ヨーロッパ(と北米)が世界を支配したのは、運命ではない、偶然だ」といっている主張を補強するのが目的なんだから、当たり前じゃないですか。世の中、偶然と成り行きがすべてですよ。

技術の発展に、資本の集中的投下以外に理由なんてないと思いますけどね。で、後はそれが可能になるかどうかは、社会経済構造と、資源のあるなしで、それは全部突き詰めれば偶然なわけだし。

そのなかで、(突き詰めれば偶然なんだけど)なにか特別な新しい要素を実証的に見つけていくのが歴史学なわけで。で、その要素がどんどん出そろってきて、そのなかでその時々で受け入れられやすい要素が生き残って、それで説明して。で、どの要素を選ぶかは、その時々の流行りによるわけで。歴史学的叙述がむしろその時々の社会認識を示しているというか。

歴史学ってそういうものなのだと思うので、納得いかない、と言われても、結局、史料上の制限がある以上、どうしようもないっすよ、としか。統計的データがそろってれば、もっといろいろできるんだろうし、説得力も増すんだろうけど、20世紀中葉以前にそんなもんないので、まあしょうがないっすよね。

で、哲学の人とかに、「歴史の人は史料に縛られてる!」とか言われて、苦笑するわけだ。じゃ、もう司馬遼太郎でいいじゃん、となる、と。いやこれもう90年代に一回やったべ。


ところで、突然思い出したけど、産業革命がなぜイギリスに起こったかは、なぜ中国で起こらなかったか、と対の問題なんだけど、後者は、流動性高すぎて信用形成ができず(国家がそれを放棄したともいえる)、そのため資本が集中的に投下され無かったので、技術開発は無理でした、で終わりですわ。そうすると、資本集中ができたイギリスとオランダの金融システムすげー、になるんだと思うんだけど。そっちの話ってないの?